関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第42号、2007年1月
インド人の戦争体験―インド国民軍と労務隊
林 博史
シンガポール華僑粛清についての調査の際に、当時、シンガポールにいた人々の体験記を集めましたが、そのなかにインド人のものもたくさんありました。インド国民軍に参加したインド人のことはよく知られていますが、他方で太平洋諸島に連れて行かれ強制労働させられたインド人については断片的な情報ばかりで、なぜかれらはそうした地域に連れて行かれたのか、志願したのか無理やりか、などわからないことだらけでした。イギリスの戦犯裁判について調べ始めたころから疑問に思っていたことで、いくつかの疑問が解けました。 2008.2.13記
要旨 日本軍の占領下におかれたインド人の動向については、インド国民軍などの研究がいくつかあるが、それ以外のインド人の動向についてはほとんど関心が向けられておらず、その実相はよくわかっていない。またインド国民軍に参加したインド人はナショナリズムに燃えていたという側面だけでとらえてよいのだろうか。ここでは、インド国民軍に参加しながらも醒めた目で見ていたインド人と、インド国民軍に参加することを拒否したために労務隊として南太平洋に送り込まれたインド人の二人の体験記を紹介する。その分析から、インド国民軍に加わった者にはナショナリズムだけではなくかなり実利的な理由があったこと、インド国民軍の募集にあたって脅迫強制がなされていたこと、参加を拒んだ者たち� ��労務隊に編成され南太平洋に送られ多大の犠牲を出したこと、日本軍のインド人への態度が中国人とは明らかに違っていたこと、などを明らかにした。このことによって、日本軍占領下におけるインド人の有り様を解明するための一助としたい。
キーワード インド国民軍、労務隊、アジア太平洋戦争、捕虜、シンガポール、戦犯
はじめに
アジア太平洋戦争における日本とインドとの関係は興味深いものがある。インド独立をめざす運動は、日本とイギリスの間でどういう態度をとるべきか、さまざまに分かれ、また揺れ動いた[1]。インド独立運動の中心組織であったインド国民会議派においても、ネルーのようにイギリスに協力することによって独立を得ようとする指導者もいれば、ガンジーのようにインドの中立を志向したり、あるいは反英闘争をおこなうなど(インドの戦場化を防ぐという立場は強かったようだが)状況によって変化する指導者もあった。ただインド国内では日本と協力してイギリスと戦うという勢力は大きくはなかったようである。
それに対して、日本に協力して、あるいは日本の力を利用してインド独立を勝ち取ろうとする運動は日本軍の占領下でおこなわれた。それがインド独立連盟とインド国民軍、後に自由インド仮政府となる一連の運動だった。
日本軍の占領下におかれたインド人の動向については、インド国民軍などの研究がいくつかあるが、インド独立に燃えて参加したインド人という側面にばかり焦点があてられているように見える。また日本軍占領下でもインド国民軍に加わらなかったインド人も少なくないが、かれらの動向についてはほとんど関心が向けられていない。インド国民軍に参加したインド人の意識の有り様はナショナリズムに燃えていたというだけの理解でよいのか、インド国民軍に加わらなかったインド人はどのような意識をもっていたのか、など多角的に実相を明らかにする必要がある。
本稿は、アジア太平洋戦争の当初、シンガポールにいた二人のインド人の体験記を紹介することによって、そうした日本軍占領下におけるインド人の有り様を解明するための一助としたい。
T インド国民軍と労務隊
日本が英米などと戦争を開始するにあたって、当初の焦点となったのがマレー半島、特に東南アジアのイギリスの拠点であったシンガポールの占領だった。この地域はマレー人や中国人に次いでインド人が多い地域であると同時に、ここに配備されていたイギリス軍の多くがインド人兵士によって構成されていた。したがってインド人に対する働きかけは一つの重要な課題であった。
アジア太平洋戦争の開戦に先立ち、日本軍は藤原機関(F機関、機関長藤原岩市少佐)を編成し、インド工作を担当させた。そしてバンコクに本部のあった反英組織のインド独立連盟と協力関係を結び、マレー進攻作戦においてかれらの協力を仰いだ。具体的にはイギリス軍の中に多いインド人将兵に働きかけてイギリス軍から離反させ、日本軍に協力させようとしたのである。こうして次々と投降してくるインド兵を組織して1941年12月31日にインド国民軍(司令官モハン・シン大尉)が編成された。
ただこの時点における南方軍の方針では、「馬来半島に於ける投降印度兵は帰順印度兵として一般俘虜とは別個に取扱」うが、「軍としては之を印度独立軍として積極的に育成する如きは現在尚考慮しあらず 従って其の取扱が部下掌握の便宜上独立問題に触るることは之を黙認するも軍は将来に於ける帰順印度兵処理を拘束するが如き結果を招来せざることに留意の上指導せられ度」と、インド独立問題では慎重な態度をとるようマレー進攻作戦中の第25軍に指示している[2]。
シンガポールが陥落した1942年2月15日時点でインド人捕虜の数は約6万5千人[3]にのぼり、その2日後の2月17日シンガポール郊外のファラ・パークにおいてインド人捕虜たちの大集会が開催され、そこで改めてインド国民軍が編成された。モハン・シン大尉は少将に昇進し、この時点で約2万5千人がインド国民軍に編入された。F機関は解体され、42年4月新たに岩畔機関(機関長岩畔豪雄大佐)が設置されインド工作を担当することになった。
その後6月ラシュ・ビハリ・ボース(いわゆる「中村屋のボース」)が日本からシンガポールにやってきてインド独立連盟の会長となり、インド国民軍はその傘下におかれた。9月1日よりインド国民軍の再編成がおこなわれた。岩畔機関が作成した「印度国民軍編成表」(1942年8月1日、10月10日改訂)によると、11月10日までの五次にわたる編成によって、歩兵大隊など野戦兵団に1万1292名、遊撃連隊や特務隊などに2万0004名、総計3万1296名の国民軍を編成するとされている[4]。11月26日には南方軍総参謀長から陸軍次官に対して、「編成表」のように「編成完結」したとの報告がなされている[5]。
しかし日本軍と対等な関係を持とうとしたインド国民軍司令官モハン・シンは11月に解任されて日本軍憲兵隊に逮捕された。その後、1943年に入ってからインド国民軍の編成替えがおこなわれた。さらにドイツに亡命していたインド国民会議派の指導者チャンドラ・ボースがドイツ軍と日本軍の潜水艦を乗り継いで日本にやってきた。そして6月にシンガポールに入った。7月にはビハリ・ボースは自ら退き、チャンドラ・ボースがインド独立連盟の総裁に就任した。10月には自由インド仮政府が樹立されてチャンドラ・ボースが主席となり、またインド国民軍の最高司令官にも就任した。この時点でインド国民軍は約1万3千人であったが3万人に増やそうとして大募集をおこなった。1944年に入るとインド国民軍もインドを目指してインパール作戦に参加することになった。その無残な結末についてはここでは省略する。
なおチャンドラ・ボースは日本の敗北直後に東京に向かう途中、台北において飛行機事故で死亡した。ビハリ・ボースは敗戦前に病死していた。インド国民軍はイギリス軍に降伏して、国民軍は解体した。国民軍の幹部3名はインドでイギリスの軍事裁判にかけられるが、この裁判はインド独立を抑圧するものとして抗議運動が高まり、無期流刑の判決が出されたが、刑の執行はおこなわれずに釈放された。
このインド国民軍について、参加したインド人たちの間では、日本軍の傀儡ではなく、インド国民会議派の主流と方法は違うがインド独立のために戦った愛国者であることが強調されている。筆者は、インド国民軍の元男性兵士と元女性兵士の証言を聞く機会があったが、両者ともそうした点を力説していた[6]。
ところで、シンガポールで約6万5千人ないしはそれ以上のインド人捕虜が生まれているが、インド国民軍に入ったのは最大限に見積もってもその半数に届かない。ほかのインド人捕虜はどうなったのだろうか。少なくとも一部のインド人捕虜は、労務隊としてニューギニアやニューブリテン島、ボルネオなどに送り込まれた。すでに1942年3月1日南方軍総司令部はインド人捕虜からなる「特殊労務隊編成規定」を制定している[7]。この「特殊労務隊は印度兵(将校及下士官を含む)中反日意識無く印度兵のみを以て部隊を編成するも特別の監視を要せすと認むるものを以て編成」し、「日本軍の補助部隊として取扱ふ」とされている。ここに編成されたインド人は「俘虜の取扱を為さざるものとす」と規定されている。この特殊労務隊は、陸上、水上、建築、航空、自動車、警備などの労務隊に編成し労役に服させることとされている。このようにかなり早い段階からインド人捕虜を労務隊として活用する方針が策定されていた。
インド国民軍の再編成がおこなわれていた42年9月13日南方軍は「印度兵取扱に関する規定」を制定した。この中でインド国民軍に編入しない者については、「反日意識無く印度兵のみを以て部隊を編成するも特別の監視を要せさるものを以て特殊労務隊を編成し日本軍の労役、警備の補助に使用し否るものは俘虜収容所に収容し労役に服せしむるものとす」とされた。つまりインド兵捕虜は、インド国民軍に編入される者、特殊労務隊に編入して労役に服させる者(俘虜としての取扱は「臨時停止」)、俘虜として俘虜収容所に収容されて労役に服する者、の三つに分けられたのである[8]。
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このインド人労務隊に関しては、戦後のイギリスとオーストラリアによる戦犯裁判において多数のケースが裁かれている。それらは日本軍将兵がこれらのインド人を殺人あるいは虐待したなどの容疑である[9]。イギリス裁判では、これらのインド人捕虜への犯罪を扱った戦犯裁判は12件、被告人数は38人である。オーストラリア裁判では被告175人にのぼっている。労務隊はまさに労働力として日本軍に使用されたが、戦況が悪化する中で、日本軍将兵による暴行や食糧難から逃れるために逃亡を図ったり、あるいは食糧を盗んだことが発覚し、処刑されたり暴行を受けた。
戦犯裁判ではかれらインド人の身分が問題になった。弁護側は、かれらは自らの意思で日本軍に加わったのだから捕虜ではなく、日本軍の構成員であるので、かれらを処罰したのは日本軍内部の問題であり、戦犯裁判の管轄外であると主張した。しかしその主張は認められなかった。ただしイギリスは当初はそうした見解だったが、1947年はじめにイギリス本国の軍法務長からのアドバイスにより見解を訂正し、日本側の主張を受け入れるようになった。そのためすでに有罪判決を受けていた12人(上記の38人に含まれる)についてもその判決が取り消され、その後はこうしたケースについては起訴しなかった[10]。
インド国民軍についてはいくつかの研究があるが、インド人労務隊がどのような経緯を経て編成されニューギニアなどに送り込まれたのか、これまでよくわからなかった。日本軍の規定はあるが、実際にインド国民軍と労務隊はどのような関係にあったのか、どのようにしてインド兵たちが国民軍と労務隊に振り分けられたのか、労務隊のインド人は果たして志願したのか、それとも日本軍に強制されたのか、など疑問は尽きなかった。
ここで紹介するのは、二人のインド人の体験である。一人はインド国民軍の文民部に参加したインド人である。シンガポールの港湾で働いていたので捕虜ではなかった。軍人でなく文民部に属する技術者であり、かなり冷静に、むしろ冷ややかに周りの状況を見ていた。これはシンガポールの口述史局が聞き取りをおこなったものでインド国民軍の違った側面を示す興味深い内容が多い。二人目はイギリス軍の兵士として参戦し、日本軍の捕虜となり、インド人労務隊の一員としてニューブリテン島に送り込まれたインド人の体験である。その息子が父親の手記を基に本にまとめて英文で出版している。その著作を紹介したい。この二人の体験の意味については、最後に述べたいが、これまで日本ではほとんど紹介されて� ��ない、日本軍に関わったインド人の戦争体験として新たな側面に光をあてるものであるだろう。
U あるインド人のインド国民軍体験
ここで紹介するのは、ダモダラン・ケサバンDamodaran Kesavan氏の体験談である[11]。1918年7月にインドのケララ州で生まれ、ケララの中学校を卒業し、サイエンス・カレッジで二年間学んだ。小学校の教師をしたあと、よりよい仕事とキャリアを求めて1939年にシンガポールに渡った。インドでは失業が多く、労働条件も悪いし給料もすいぶん低かったからである。インドでは国民会議派の活動に参加していた。シンガポールでは技術者である友人の所に滞在し、その友人の紹介で見習い工として仕事を見つけることができた。その後、1941年はじめにケッペル港にあるシンガポール港湾局の製図工draftmanとしての職を得た。そこで働いていたときに戦争が勃発した。一度仕事を離れるが1942年9月からは再び日本軍政部の測量課で製図工として働いた。その後、43年末にインド国民軍に参加、文民部門の再建局に勤めることになった。44年にシンガポールを出発してインド国民軍とともにビルマに向かい、メイミューにとどまった。インド国民軍がインドに入ったあと、解放したインドの再建のための要員であったので、メイミョーで待機したままだったようである。そして敗戦とともにイギリス軍に捕らえられた。
日本軍がシンガポールを占領したとき、かれは3、4人の独身者たちと一緒に暮らしていたが、日本軍が彼の家の側に来たときのことを次のように語っている。家の外で数人ですわってしゃべっていたとき、日本人が来たが、かれらは「インド人にいくらか敬意を払っていた」。通りがかった日本人たちは「オー、インド人」と言って側に来てすわり、しゃべったり冗談を言った。身振り手振りを交えてブロークンイングリッシュでしゃべった。コーヒーか紅茶を出したが、日本人はカップの半分ぐらいまで砂糖をいっぱい入れ、飲み干した。5年も6年も砂糖を見ていなかったかのようだった。ダモダラン氏によると、日本人はインド人には好意的な態度で接したが、中国人に対する日本人の態度は違っていた。
隣には二人の若い少女と少し年取った人など中国人が住んでいた。2、3日たって同じ日本人二人がまたやってきて、玄関の表からではなく裏から入って少女たちを弄んだ。次の日もまた同じことをした。その後かれらはよく来るようになった。その家の人たちは最初の3日くらいは抵抗していたが、逆らっても無駄だとわかったようだった。
日本兵にお辞儀をしないと止められてビンタをうけるというのはよくあることだった。あるとき、一人の男が捕まり、鎚で打たれ、鞭で叩かれ、木枠の上に縛られて暑い太陽の下に置かれていた。別のあるときには、シンガポール駅のスタンドにいくつかの頭が並べられていた。頭が並べられているということを聞いたので見に行ったら本物だった。マレー人と中国人とインド人の頭で、泥棒だった。つまりさらし首にされていたのである。
華僑の粛清についても知っていた。チャイナタウンで人々が集められるのを見た。鉄条網で囲まれた場所に集められ日本兵が銃を彼らの方に向けていた。夜になるとトラックが来て、選り分けた人々を連れ出し、二度と戻ってこなかったと聞いた。
中国人たちは非常にひどく扱われたので、どこかに行くときにはインド人に助けを求めた。いたるところに日本兵の歩哨がいたので、もし疑われたら、捕まえられ尋問をうけ、殴られた。インド人が、「彼女は私の妻です」とか「いとこです」「兄弟の妻です」など、親類だと言わなければならなかった。そうすればかれらはなんとか歩哨の前を通り抜けることができた。
その後、日本軍が製図工を探しているという話を聞き、応募した。しばらく連絡がこなかったが、ようやくブラスバザー・ロードの教会の横にある建物に入っていた日本軍政部の測量課でトレースの仕事を得た。最初は1日1円50銭だった。
ここでの仕事の環境はよく、中国人やマレー人、セイロン人なども働いていたが、日本人とも友好的であったという。日本人は技術者たちであり軍人らしくなかった。彼は空中写真を基にして地図を描くという仕事をしていた。給与はすぐに1日3円に上がり、多くの米や砂糖、タバコも配給でもらえた。
かれは「アジア人のためのアジア」「共栄圏」という日本軍のスローガンに対してあまり関心はなく、むしろ冷淡だった。
東条首相がシンガポールに来たときのことを覚えている。通りには人がたくさん出ていた。兵士もたくさん出ていた。住民たちの東条の行進への態度は「何も反応はなかった」。もちろん拍手はあったがそれはいつもことでしかなかったという。
かれはその後、仕事をやめインド国民軍に入った。チャンドラ・ボースが指導者になってから、インドの独立とすべてのインド人のために戦うということが本当のことのように思えてきた。そこですっかり熱狂的になり、集会などにも参加した。ビハリ・ボースのときはそれほどでもなかったという。なぜかと言うと、ビハリ・ボースはかつての自由のための闘士だったが、テロリスト・グループのようなものに属していたし、インド人のものというよりは日本人にあやつられた道具のように思っていたからだという。それに彼が大きなことをできるとは信じていなかった。しかしチャンドラ・ボースが来て、気持ちが変わった。かれはインド全土で政治的にもよく知られていたし、ネルーやガンジーなどと並んで真の� ��ショナリスト指導者の一員だった。かれは真の指導者になれる人材だったし、本当に革命的で、かれならなにかできそうだった。それがみんなの気持ちだった。外からの力がインド内部の運動に大きな刺激となるとみんな信じていた。一握りの人々がイギリスをインドから追い出すのではなく、われわれが一度インドに進入すれば、インドの中から軍隊による戦いが起こるだろうと。
こう思ったダモダラン氏はチャンドラ・ボースがやってきたのを機会に、多くの友人たちとともにインド国民軍に加入したのである。また日本人から自由を得たいという希望もあった。インド国民軍に入るとより一層自由な気持ちが持てた。
市庁舎前の広場パダンでおこなわれた集会でのチャンドラ・ボースの演説は人々がインド国民軍に入る契機となった。かれはインド国民軍の文民部門に入隊した。文民部門だったが、行進やライフルなど小火器の扱いなど基本的な訓練は受けなければならなかった。
インド国民軍に入隊してその軍服を着ると、日本兵は接触しなくなるし、止まれとも言わなくなった。日本兵とはあまり関係を持たなくてすんだ。軍服はパスポートのようなものだった。日本兵からも非常に敬意を払われた。
かれは技術者の集団である再建局に所属することになった。骨の折れる仕事ではなさそうだったのでそこに加わった。制服は着ていたが記章はつけていなかった。ただみんなチャンドラ・ボースのバッジを着けていた。
かれの所属した再建局は、インドに進入してから再建の核となる部隊であり、機械技術などの技術者や現場監督などさまざまな専門家集団だったので、それまでは特に仕事はなかった。
インド国民軍に入ってわかったことは、すべての指導者たちが献身的であったわけではないということだった。多くが、自分自身の安全のため、日本軍からの安全のためにインド国民軍に加わったのだ。そういうことがたくさんあった。インパールが近づくと、前線の将校のなかにはインド国民軍から抜け出してイギリス軍に行き、こちら側の情報を伝える者もいたということだった。
ビルマではメイミョーの町の郊外に駐屯した。そのキャンプにいたころについて、食糧の配給については「十分だった」と述べている。時々、肉や魚もあった(別の箇所では魚はなかったと言っているが)。メイミョーは健康的なリゾートであり、気候もよく、野菜も豊富だった。食糧は豊富だったので問題はなかった。井戸もキャンプの中にあり、沸かしたお湯だけを飲んでいた。病気の問題はとくになかった。楽しかった経験も不愉快な経験もとくにはなかった。ミュージックパーティなど文化活動もやることができた。ここにいたときには、特になにかやるべき仕事はなかった。
インパール作戦から撤退が始まり、雨季に入ると負傷者の状況は特に悲惨で、さらに赤痢やマラリアが発生した。そしてメイミョーから撤退していった。ラングーンの北方まで歩いて後退したが、自分に必要な米や砂糖、塩などは担いで行ったので、恵まれた食事とはいえないが、食糧不足に困るようなことはなかった。そして彼はイギリス軍に投降する。
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ダモダラン氏の体験は、典型的なインド国民軍兵士のものではない。インド独立へのある程度の情熱はあるが、それほど熱狂的なものでもないし、カレッジを卒業した、一定の学歴と技術を持った人物であり、周りの状況をかなり冷静に見ている。日本軍政部の測量課という技術者集団の組織で働いていたため、そこで知り合った日本人とは良好な関係を結んでいた。また文民部門の技術者であって恵まれた状況にあり、インパール作戦から撤退してくる日本兵やインド国民軍兵の悲惨な状況を見てはいるが、自分自身はそれほど悲惨な状況にはなかったために、冷静に見ることができたとも言える。
彼の証言で興味深いことはいくつもあるが、一つは、日本兵がインド人と中国人に対してまったく異なった態度をとっていたことである。二人の日本兵のインド人に対する打ち解けた態度と、隣家の中国人少女への態度の違いはその表れの一つだろう。
さらにインド国民軍の制服を着ると、日本兵が敬意をもって接してきたということがある。インド人が国民軍に入った理由のなかに、自分の安全を確保すること、日本軍から自由になりたいという理由があることを見ている。
あるインド国民軍の将校が「日本兵は野蛮だったけれども、このことだけは彼らのために言っておこう。彼らは決してインドの女に乱暴することはなかった。実際、多くのアジア人や中国の女がサリーやヴェールをまとって、自分はインド人だといい、暴行を免れたのである」と語っていることと共通している[12]。なお東条英機に対して、人々が表向きは歓迎しながらも冷淡であったとも述べており、日本に対する醒めた目も興味深い。
ビハリ・ボースへの厳しい評価とチャンドラ・ボースへの熱い思いとは対照的であり、チャンドラの登場が大きな影響を与えたことがわかる。
かれは例外的なのかもしれないが、インド独立への情熱だけがインド国民軍を支えたと単純には言えない、さまざまな要素がうかがわれる興味深い体験談であると言えるだろう。
V あるインド人労務隊員の体験
ここで紹介するのは、ジョーン・バプティスト・クラスタJohn Baptist Crasta氏の体験記である。ジョーン氏は1910年にインド南西部の港町マンガロールの近郊で生まれた。高校の卒業資格を得てから5年ほどカラチで働いた後、1933年に英印軍に入隊、戦後はインド軍でも勤務し、准士官まで務めた。ジョーン・バプティスト・クラスタ氏の名前で『日本兵に食べられてEaten by the Japanese』という刺激的なタイトルの著書が刊行されている。この本は、氏の息子のリチャード・クラスタRichard Crasta氏が解説などを書いており、ジョーン氏の手記にリチャード氏の手が少し入っている。1998年にインドで出版され、翌年にシンガポールでも刊行されている[13]。
彼の所属する兵站部隊は1941年3月にシンガポールに移動し、シンガポール駅で輸送と食糧供給の任務にあたった。日本軍がマレー半島に上陸すると、部隊はペナンの近くに移動するが、日本軍の進攻とともに南に下がり、42年1月25日にシンガポールに退却、そこでイギリス軍の降伏を迎えた。
降伏の翌日、2月16日、インド人捕虜はすべてファラ・パークに、イギリス人捕虜はチャンギに翌日朝9時に集合するように命令された。そこには6万人以上のインド人捕虜が集まり、降伏式典がおこなわれ。そこではインド国民軍司令官のモハン・シン大尉が2時間以上にわたって演説をおこなった。そして彼がインド人捕虜たちに対してインド国民軍に加わりたい者は手を上げよ、と呼びかけたところ全員が手を上げた。しかしジョーン氏の周りでは何人もが悲しそうな顔をしたのを見つけた。ある者は「25年もご主人に仕えてきたのに、いまさら何をしなければならないのか。家族はどうなるのだろうか」とぼそぼそと言いながら、子どものように泣き出した。氏を含めて英印軍兵站部隊約1100人らはまとまってビダダールBキャンプBidadare B Campに収容された。そこで、病気と炊事勤務者を除いて毎日12時間の勤労作業に従事させられた。その後、収容キャンプはシンガポール島内で次々に移動するが、作業の日給は10銭、一月でも3円にしかならなかった[14]。
いく人もの上級将校は、イギリスに逆らって日本軍に積極的に協力することを望んでいなかったが、日本軍に反抗することはできなかったので、さしあたり日本軍の要求を満たしながらも英軍を損なわないような妥協的な装いをとろうとした。インド国民軍に入るようにというキャンペーンがおこなわれたが、志願しない者は重労働を課せられ、遠方に連行されると脅された。だがそれもあまり効果はなかった。ビダダール・キャンプの近くに別のキャンプが設けられた。そのキャンプは、隔離キャンプSeparation Campと呼ばれたが、それはインド国民軍兵士によって、志願しようとしないインド人同胞に対してひどい非人間的な残虐行為がおこなわれた強制収容所だった。スベダル・シャー・シンSubedars Sher Singhとファテー・カーンFateh Khanの二人の高級将校はインド国民軍に加わることを拒否したためにこの隔離キャンプに入れられた。そこで裸にされて食事を与えられず、頭に重い荷を載せられ、"掃除人"によって殴られるなどさまざまな拷問が加えられた。"掃除人"とはインドのカーストの中では非常に低い地位の者なので、"掃除人"に殴られるということは精神的な屈辱をも与えられる行為であった。この隔離キャンプの中で多くのインド人が殺され、あるいは病院に移されてから死に、拷問に耐えられないものはインド国民軍に志願する書類にサインしてようやく釈放された。
1942年6月1日にジョーン氏らはバラー・キャンプBuller Campに移された。ここでの宿舎や食事はよかった。このキャンプに収容された者には反インド国民軍の姿勢が強かった。インド国民軍への参加を強制するな、勤労作業に賃金を支払え、捕虜であることを明確に示す旗を、という不満があった。10月1日、志願しない者にはセレターSeletarへの移動命令がだされた[15]。かれらはセレターに移った。そこで司令官から訓示がなされた。インド国民軍に加われば兄弟のように扱われるだろうが、もし拒否すればかわいそうにGod help us……と述べた。志願しない者は敵の同調者として扱うこと、ほとんど食事も薬も衣服も与えられずに厳しい労働をさせられ二度と帰って来れない遠くに連れて行かれ、惨めな死に方をするだろう、などと脅された。キャンプにはインド国民軍のスパイがいて国民軍を批判するようなことをしゃべるとすぐにキャンプ司令官に密告された。
1942年12月25日、氏らはリバー・バレー・ロードRiver Valley Roadのキャンプに移された。そこはインド国民軍ではなく日本軍が管理していたので、インド国民軍の支配から免れたとみんな喜んだ。ここでの待遇はよかった。ちょうどこの時期、すでに述べたようにインド国民軍内ではモハン・シンとビハリ・ボースの間で対立があり、モハン・シンが失脚し、ビハリ・ボースが司令官に就き、国民軍の再編が行われつつあったときだった。新たに配られたリーフレットでは、隔離キャンプについて日本軍もボースも知らなかったが、インド人同胞に加えられていた残虐行為を知って大変驚き、直ちに閉鎖させたと書かれていた。そしてインド国民軍への参加を強制しないように指示したとも記されていた。
1943年に入ると、新しいインド国民軍への志願者が募集された。このときは強制されなかったが、志願しない者には別の運命が待ち受けていた。かれらは労務隊として南太平洋方面に送り込まれたのである。
約500人の第一陣はアダム・ロードAdam Roadとパヤ・レバー・ロードPaya Leber Roadのキャンプから選ばれた。第一陣は1942年12月に出航したが、ニューギニアの北方でアメリカの潜水艦によって輸送船が撃沈され、さらに海上を漂っているところを浮上した潜水艦から機銃掃射を受け多くが犠牲になった。生き残った者はニューブリテンに送られた。
第二陣は約1000人が43年1月に出発、ラバウルに到着した。第三陣はジョーン氏を含めて530人が43年4月1日キャンプを出発、翌2日輸送船はシンガポールを出航したが、どこに行くのかは教えられなかった。
キャンプ司令官はかれらを日本軍に引き渡すときに、「文民の仕事civil work」を与えられると述べた。インド人捕虜の間では、台湾に送られるとか、ジャワかスマトラの製糖業かもしれないとか、語られたが、いずれにせよインド国民軍の掌中から逃れられるということで大喜びをしていた。
輸送船には約2000人が詰め込まれた。途中、スラバヤに寄港してそこ
でマレー人兵士500人近くが乗り込んできた。船内ではひどい待遇であったため赤痢が発生し連日死者が出る状況で、5月22日船はようやくパラオに寄港した。そこにはすでにインド人約400人が重労働に従事していた。3週間ほどパラオに留まってからさらに南に向かい、ようやく6月26日ニューブリテン島ラバウル近郊のココポに到着して下船した。彼の部隊530人のうち60人近くが航海中、赤痢で死亡した。上陸後、マラリアが発生し、少なくとも200人以上が赤痢やマラリアで倒れた。7月21日健康な250人ほどはラバウルに移動した。彼もその中に入っていた。ラバウルでは重労働が待っていた。入港した輸送船から物資や弾薬などを荷下ろしする作業だった。この段階では米の配給は十分に与えられていた。しかし重労働と病気、さらには連合軍の航空機による爆撃により犠牲者が出た。44年1月に大船団が入港したが、連合軍の空襲で破壊された。そうした空襲に、日本軍の終わりは近いとかれらは非常に励まされた。連合軍の飛行機は希望だった。
まもなく補給が途絶えると、自給自足のために耕作などが始まった。このときまでにかれの部隊では120人近くが死んでいた。かれらはニューブリテン島内であちこちに移動して作業をやらされた。
最大の痛みスティックフィギュア
1945年になってからのことと見られるが、かれらの監督としてコガという兵士が来た。かれはきわめて残酷な悪魔Devilだった。コガは、インド人の作業が遅いと、杖や拳固で殴ったり、蹴ったりした。またインド人はイギリス人と同じで、怠け者で生きるに値しない、楽しむだけしか知らないから負けるのだ、などと罵った。ただ3月にかれらの部隊は移動して、そこの監督のMeena軍曹は非常に思いやりのある温和な人物だったのでかなり改善されたが、全体として状況はどんどん悪化していった。
45年6月末、あるインド兵がオーストラリアの飛行機が投下したリーフレットを拾ってきた。ドイツが敗北したことを知り、日本の終わりが近づいていることがわかり、喜びは極まりなかった。
しかし、別の隊では米を盗んだ2人が日本軍によって首を刎ねられ、かれの部隊でも米を盗んだ1人がひどく殴られ、それがもとで死んだ。戦争が終わったことを知らされたのは8月18日のことだった。それを知らされたときは、「私の人生で最も幸福な日だった」。その後、日本軍の態度が変わり、靴や帽子、たくさんのキニーネなどの医薬品を提供された。また日本軍の貯蔵庫の物を使えるようになった。インド人のなかには、復讐のために日本軍将兵から持ち物を奪ったり、殴る者もいた。日本軍がインド人に食糧を分けてくれるように頼むというように立場が逆転した。
インド人たちを救援するために捕虜救出チームが到着したのは9月中旬になってからだった。オーストラリア兵はインド人たちにできる限りの世話をおこない、一緒に食事をしたりして交歓した。
その後、かれは10月1日にインド人将校らを中心とした戦争犯罪捜査委員会に加わり、尋問、証拠の収集をおこなった。その委員会で約160件の報告書を提出した。その中で彼が取り扱ったケースは、45年4月に2人のインド人が日本兵に殺されたうえに食べられたという人肉食のケース、オーストラリアの飛行機が投下したリーフレットを持っていたグルカの准士官や兵たちが憲兵隊に見つかり木から吊るされたケース、をはじめ首斬り、射殺、その他の残虐行為であった。
ニューギニアに送られたインド人たちはもっと悲惨な運命にあった。3000人中生き残ったのはたった200人にすぎず、ほとんどは飢えや強制労働、病気で死亡した。中には日本兵に食べられたものもいた。ニューブリテン島では1万1000人のうち生き残ったのは5300人、そのうち1000人近くは入院しなければならない状態だった。
ニューブリテン島からインド人たちが引揚げたのは、第一陣約1000人が10月20日イギリス海軍の空母フォーミダブルによってであり、彼は第三陣の一員として11月14日に出発、シンガポールを経由してボンベイに到着したのが12月4日、休息施設にいったん収容されてから故郷にたどり着いたのが、24日クリスマスイブの夜のことだった。
W 二人の体験記から明らかになったこと
ジョーン氏の手記によって、これまでよくわからなかった、シンガポール陥落後からインド人労務隊としてニューギニア方面に送り込まれるまでの過程が詳細に明らかになった。インドではすでに知られているのかもしれないが、少なくとも日本ではまったく知られていなかったし、筆者がこれまで探索してきた英文の出版物でもこれまではわからなかった。
ここで紹介した二人の体験から明らかになったいくつかの点を主にジョーン氏の手記を中心に整理しておきたい。
第一にインド国民軍への参加にあたって、かなり厳しい強制がおこなわれたことである。もちろん自ら志願した者も多かっただろうが、志願しようとしない者には、くりかえし脅迫、いやがらせなどがなされ、特に志願しない将校は隔離キャンプ(強制収容所と呼ばれていた)に入れられて拷問を加えられ、殺された者も少なくなかったようである。この拷問に耐えかねてインド国民軍への「志願」にサインさせられた者たちもいた。そうした暴行は日本軍によってではなく、インド国民軍のメンバーによってなされていた。
第二に、上記の点と重なるが、シンガポールで捕虜になったインド人捕虜約6万5千人のうち半数以上はインド国民軍に入らなかったということである。インド人捕虜が、インドの解放のために進んでインド国民軍に入ったということは実態の一側面にすぎない。インド国民軍に志願しなかった者たちの理由は必ずしも明確ではないが、その一つにはイギリス人という主人に長年仕えてきて、召使意識からかんたんに逃れられなかった兵士のことがこの手記の中でも取り上げられている。ただジョーン氏が志願しなかった理由は必ずしもはっきりとは書かれていない。
第三に、これは推測にすぎないが、この手記の中で、志願しない者が"掃除人"に殴られたこと、カーストの低い者にそうした扱いを受けることは非常に屈辱であったことが触れられている。このことは、従来の英印軍においては、インド社会のカーストの階級差別がそのまま維持されていたのに対して、インド国民軍に加入することによって、下位のカーストの者が、加入しない上位のカーストの者に対して優位に立てるという側面があったことを示しているのではないだろうか。インド国民軍に加入した者と、そうでない者のカースト別の分布などがわかれば、もしかすると、インド国民軍への加入が、カーストの差別から解放されるという期待をもたせるものだったのかもしれない。この点は、データがないので今� ��の課題である。
第四に、インド国民軍に入った理由を考えると、国民軍の制服を着ていると日本兵の態度がまったく違ったと述べられているように、日本軍占領下で自らの安全や生活を保障するためという理由が浮かんでくる[16]。なぜインド人捕虜たちがインド国民軍に入ったのか、というのは、拷問や脅迫などの強制、カーストの問題、自らの安全と生活のためなど、ナショナリズムとは違う、多様な要因があったのではないかと思われる。
第五に、上記のことを踏まえ、インド人労務隊の編成ならびにかれらがニューギニアやニューブリテン島など南太平洋地域に送り込まれたことは、みずから志願したのではなく、インド国民軍への加入を拒否したため、つまり日本軍への協力を拒否したためであったことがはっきりした。そして本人たちには、何をするのか、どこへ行くのかも知らされることなく、南方に送り込まれたのである。
第六に、インド人労務隊は強制労働者たちであり、過酷な労働を強いられた。インド国民軍への加入を拒否した者たちであったので、当然のことながら連合軍を見方だと考えており、連合軍の勝利を歓迎していた。そこから日本軍はかれらを連合軍に通じるのではないかと疑いの目で見て、スパイとして処刑するようなことも起きたのである。戦後の戦犯裁判において日本側の抗弁は、事実ではなかったと言える。「印度兵取扱に関する規定」のなかで、「特殊労務隊に属する印度兵にして罪を犯せる者に対しては俘虜の取扱に復帰せしめ又は刑罰を科す」と規定されていることを見ても、かれらは日本軍の構成員とは言えないだろう。捕虜であり、意思に反して強制労働をさせられていたのであり、彼らに対する日本軍� ��兵による残虐行為は戦争犯罪として裁かれて然るべきであったと言える[17]。
第七に、戦後の戦犯捜査チームに、労務隊のインド人将兵も加わり、捜査に協力していることがはっきりした。オーストラリアのラバウル裁判では、インド人捕虜への残虐行為がたくさん裁かれているが、インド人捕虜たちがその事実を調査しまとめていったことがその背景にあったことがわかる。
第八に、手記にはなく、息子リチャード氏の解説にのみ書かれていたことであるが、インド国民軍将兵を戦後独立したインドにおいてどう扱ったのかという問題である。リチャード氏の解説によると、ネルーはインド軍にかれらを入れようとしたが、陸軍最高司令官のカリアッパCariappa将軍が強く反対したという。なぜなら、イギリスに忠誠心を持っている兵士たちは、国民軍兵士は上官への忠誠の誓約を破った者たちであり、変節者あるいは日本の第五列と見なしているので、インド国民軍の元兵士たちを入れることは、士気を低下させるという理由だった。そのためネルーはその意見を取り入れて、インド国民軍兵士を辞めさせたという。
インド国民会議派などは、イギリスがインド国民軍指導者を処罰することには反対したが、だからと言ってかれらを同志として単純に歓迎しただけでもなかったことがうかがわれる[18]。
おわりに
すでにいろいろ述べてきたので、あらためては繰り返さない。すでに述べたように、アジア太平洋戦争中のインド人について、インド解放の意欲に燃えてインド国民軍に参加したインド人のことばかりが紹介されてきた傾向があるように思える。インド・ナショナリズムに燃えてインド国民軍に参加したインド人が多くいたことは事実であろうが、それ以外のインド人については、ほとんど注目されてこなかった。ダモダラン氏の証言を見ると、インド国民軍に参加した理由もそう単純ではない。
マレー半島・シンガポールにおいては、中国人、マレー人、インド人が民族的に三つの主要な存在と言ってよい。しかし日本軍占領下におけるインド人の状況についてはまだわからないことが多い。ここで紹介した二人の体験記は、それを解明するうえで手がかりになる貴重な証言であろう。
(注)
[1] インド国民会議派の動向については、長崎暢子『インド独立―逆光の中のチャンドラ・ボース』朝日新聞社、1989年、がくわしい。以下のインド国民軍の動きについて、注記のないものは主に次の二冊を参考にした。藤原岩市『F機関』原書房、1966年、丸山静雄『インド国民軍―もう一つの太平洋戦争』岩波新書、1985年。ほかに長崎暢子編『南アジアの民族運動と日本』アジア経済研究所、1980年、長崎暢子「東南アジアとインド国民軍―ディアスポラ(離散)・ナショナリズムの崩壊」(『岩波講座 近代日本と植民地 5 膨張する帝国の人流』岩波書店、1993年)、田中宏編『日本軍政とアジアの民族運動』アジア経済研究所、1983年、中島岳志『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』白水社、2005年、なども参照。
[2] 南方軍総参謀長より富集団宛(参謀次長・陸軍次官にも送付)1942年2月7日付(『陸亜密大日記』昭和17年第4号、防衛庁防衛研究所図書館所蔵)。なお当時の日本軍文書はカタカナ表記だが、ひらがな表記に、旧字体は新字体に改めた。
[3] イギリスの公刊戦史(Stanley Woodburn Kirby, The War against Japan, Vol.1 The Loss of Singapore, London: Her Majesty's Stationery Office, 1957, p.473)によると6万7340人、日本側の資料では、マレー方面でのインド人捕虜7万1319人という俘虜情報局の数字もある(内海愛子『日本軍の捕虜政策』青木書店、2005年、226頁)。
[4] 『陸亜密大日記』昭和17年第61号。
[6] シンガポール歴史博物館で開かれた「退役軍人とのつどいForum with Veterans」(2005年9月4日)での証言。
[7] 『陸亜密大日記』昭和17年第17号。内海前掲書201頁参照。同書199−204頁、445−450頁にも関連する叙述がある。
[8] 『陸亜密大日記』昭和17年第43号。
[9] イギリス裁判については拙著『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、160−162頁、オーストラリア裁判については、拙稿「オーストラリアの対日戦犯政策の展開(下)」『季刊戦争責任研究』第44号、2004年6月、36−37頁、拙著『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005年、90―92頁、参照。
[10] この経緯は、『裁かれた戦争犯罪』160−162頁、参照。
[11] シンガポールの口述史局Oral History Departmentが1981年11月19日にシンガポールでおこなった聞き取り(英語)である。インタビュアはヨギニ・ヨガラジャYogini Yogarajah女史。同年11月26日にテープ起こしがされている。ここではその原稿を基に紹介する(Access No.127、シンガポール国立公文書館所蔵)。なお次のジョーン・クラスタ氏の手記の紹介もともに逐語訳ではなく、要旨を整理して紹介するのでご了承いただきたい。
[12] 長崎暢子「東南アジアとインド国民軍」163頁。
[13] John Baptist Crasta, Eaten by the Japanese: The Memoir of an Unknown Indian Prisoners of War, Singapore: Raffles, 1999. ジョーン氏は手記の公表をしぶっていたようだが、息子のリチャード氏が父親には黙って密かに編集して出版したという。手記のわかりにくい箇所などを著者に確認するなどの編集作業がなされていないため、わかりにくい箇所がいくつもあるのが残念である。
[14] ダモダラン氏の日給が当初で1円50銭だったことと比較するときわめて安い。先に紹介した「特殊労務隊編成規定」では「特殊労務隊には概ね苦力賃の標準に依り労銀を支給す」とされている。1942年4月10日付の南方軍総参謀長より仏印、タイ、ボルネオの各部隊長宛に出された通牒(シンガポールにいた第25軍にも送られている)によると、特殊労務隊員以外で労務に服したものに対しては、1日あたり准士官以上25銭、下士官15銭、兵10銭を支給するとされている(『陸亜密大日記』昭和17年第17号)。1日10銭という氏の証言はこれに照応すると思われる。なお特殊労務隊については同年4月2日陸軍省高級副官より南方軍総参謀長宛の通牒で「特殊労務隊は日本軍の補助部隊として使用するものなるを以て(中略)比較的良好なる賃金を支給するを適当とす」とされ、ただし日本軍の一・二等兵の戦時増給分を含めた月10円50銭を「超過するは不可」ということで、インド兵はそれより少し低い日額30銭、月9円と定められた。なおインド兵の下士官が月10円50銭と日本軍の一・二等兵と同額とされ、准士官は月13円50銭とされている。
[15] 原文ではSelctarだがこういう地名はないので、セレターSeletarの誤記と判断した。ここは軍港がある地区である。
[16] 長崎暢子氏は、インド国民軍の結成によって「この地域のインド人の安全が保障された」という側面を指摘されている(前掲書256頁)。この点と共通する面があるだろう。
なおすでに紹介した「印度兵取扱に関する規定」のなかで、「印度兵の指揮は反英独立思想を鼓吹し日本を盟主とする大東亜の印度たるの信念を得しむるを以て主眼とす 之が為帝国将兵は印度兵に対しては努めて友好的精神を以て接触し其の民族意欲を尊重し之か感化に努むるものとす 印度兵の思想、風俗、言語(号令を含む)、習慣、宗教等に対しては努めて之を尊重するものとす」と規定されている。日本軍がインド兵に対してはかなり気を使っていたことがうかがわれる。
[17] 筆者は、『BC級戦犯裁判』のなかで、次のように書いた。「かれらは当初はイギリス軍などの一員だったが、マレー半島などで日本軍の捕虜となり、解放の代わりに日本軍に協力することを約束させられた者たちだった」。「当初は日本軍を信じ日本軍に加わったインド人も、インド方面とは関係のない太平洋の島に連れてこられ、労働力として酷使され暴行を受け、しばしば仲間が処刑されたことから、日本軍に裏切られたという思いがあっただろう」(91頁)。この叙述は明らかに間違いであった。彼らは解放されたのではないし、日本軍に協力することを約束したわけでもなかった。日本軍を信じたわけでもなかったし、日本軍に加わるという意思もなかった。だから日本軍に裏切られたという思いもここで書いているような意味では、なかった。したがって上記の叙述は訂正しなければならない。
[18] 丸山静雄『インド国民軍』204−206頁も参照。ただこのカリアッパ将軍の意見には触れられていない。
【補】本稿脱稿後に入手したインド人警察官アーマッド・カーンAhmad Khan氏の証言を紹介しておきたい(シンガポール口述史局による聞き取り、Access No.400)。氏は、イギリス植民地当局の特務機関Special Branchで日本人対策の任務についており、そのため日本軍に捕らえられて処刑されそうになった。そのとき知人を通じて日本軍高官の斡旋で助けられ、その代わりに日本軍特務機関で働くようになった。かつての同僚だった中国人刑事20人が日本軍によって連行され処刑されたことも知っており、日本人に対して持っていたよいイメージが占領の最初の1週間で失われたと語っている。命を救われた見返りとして戦争中は日本軍の下で働いていたが、戦後はイギリス当局の下でインド人の対日協力者の捜査摘発を担当した。勤務する機関への忠誠と義務を遂行するのが自分の姿勢であって政治的な傾向は持たないように教育されてきたと自分の姿勢を語っている。
日本軍占領下で日本軍の特務機関のスタッフとして働いていたアーマッド氏は、インド国民軍の憲兵隊が日本軍の憲兵隊と同じような仕事をしていたこと、インド人捕虜が収容されていたセレターやクランジのキャンプにおいて、インド国民軍に加わることを拒んでいるインド人捕虜に対して拷問を加え、その結果、多くが殺されたこと、そうした拷問を受けた多数の者が精神のバランスを失いその後も回復しなかったこと、多くがインド国民軍に無理やり参加させられたこと、自ら進んでインド国民軍に参加した者もいたが、他方で、捕虜の身分から解放されてあらゆる種類の便宜を提供される快適な生活を求めて参加するものもいたこと、高い階級を得ようとして野心に燃えて加わった者もいたこと、などを指摘� �ている。インド国民軍の憲兵隊長シンガラ・シンは英印軍ではただの兵士だったが、インド国民軍では大尉の階級を与えられて憲兵隊長になったという。
自らの政治的思想や主義を持たず、仕えるべき主人に忠実であろうとし、インド国民軍にも、それに抵抗する者にも、どちらにも冷ややかに第3者の視点で見ていた氏のようなタイプのインド人たちがいたことはほかの証言でもうかがわれる。こうしたインド人たちの存在について本稿では触れることができなかったが、一定の割合を占めていたと思われる。
[追記] 本稿の作成にあたっては、関東学院大学経済経営研究所のプロジェクト「構築としての地域・コミュニティ・文化」(2004-2005年度)の共同研究による資料調査の成果を利用させていただいた。
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